中国ドラマを観ていると、ふと気になる存在がいます。
それが――「宦官(かんがん)」です。
『瓔珞』『如懿伝』で乾隆帝のそばで立ち働く李玉や、小全子など、物語のなかで“ただの使用人”とは思えない存在感を放つ彼ら。
でも彼らって何者?なぜ子どもができないの?そもそもどうして後宮に出入りしているの?
――そんな素朴な疑問をきっかけに、私は調べてみることにしました。
この記事では、ドラマ視聴をきっかけに「宦官って何?」と感じた方に向けて、宦官の歴史・役割・生活・そしてドラマでの描かれ方をやさしく紹介します。

宦官制度のはじまりは戦国時代
宦官の制度は、清朝や明朝などのドラマでよく目にしますが、その起源は中国の戦国時代(紀元前475〜221年)にまでさかのぼります。
すでにこの時代、王に仕える「宦者」や「監門者」が記録に登場し、去勢された男性が王宮に仕える制度が存在していたことが確認されています。
とくに秦では、始皇帝の父・子楚の時代から宦官が登場しており、秦の統一以前からすでに制度として確立していたと考えられます。
以降、前漢・後漢・唐・宋・明・清と、王朝が変わっても宦官制度は2000年以上にわたって続きました。
宦官とは何者か?
宦官とは、生殖能力を持たないよう処置された男性で、皇帝や后妃に仕える宮廷職員のこと。
中国では紀元前から存在しており、紫禁城でも後宮を支える重要な役割を担っていました。
とくに後宮は“男子禁制”の世界。
唯一立ち入りを許されたのが、去勢された男性=宦官です。
なぜ宦官は子どもができないの?
理由は明快です。
皇帝以外の男性が後宮の女性と関係を持たないようにするため。
皇帝の血統の正統性を守ることは、王朝にとって絶対的な価値。
そのため後宮に入る男性には、生殖能力が完全にないことが求められました。
また、宦官は家系を残せないため、出世しても“脅威になりにくい”とされ、皇帝のそばに置かれる存在として重宝されることもありました。
去勢手術はどう行われていたのか?
宦官になるには、専用の処置を受ける必要がありました。
これは、男性としての機能を完全に取り除く処置で、極めて危険なものでした。
当時は麻酔や衛生対策も未発達。感染症や出血多量で命を落とすことも少なくなく、まさに命がけの決断でした。
それでも、極貧の出身者が家族の生活のために自ら望んで宦官になるケースや、重罪を逃れる条件として去勢を選ばされるケースもありました。
宦官にも“階級”があった
宦官とひとことで言っても、実はその中には明確な階級制度が存在していました。
紫禁城では「九品十八級」と呼ばれる階層に分かれ、仕事内容や待遇、身なりにも大きな違いがあったのです。
下級宦官からすべてが始まる
原則として、すべての宦官は最下層の“下働き”からスタートします。
最初に与えられる仕事は、掃除、水くみ、台所の手伝いなどの雑用ばかり。
多くは9〜15歳で宦官として宮廷入りし、すでに処置を受けた状態で採用されました。
特に幼い年齢での処置は身体的リスクも高く、「命をかけて生き方を選ぶ」という言葉が誇張ではなかったことがわかります。
上にのぼるには“目に留まる”しかない
おとなしい性格、よく気がつく性分、器用さ――
そうした要素を持ち、主君や上役の目に留まった者だけが中級宦官、上級宦官へと昇進していきます。
中級になると、后妃の身の回りの世話、文書の運搬、儀式の補助などに関わるようになります。
さらに信頼を重ねた者だけが、やがて「太監」と呼ばれる上級宦官に――。
上級宦官とは?
上級宦官は、「掌印太監」「総管太監」などの肩書を持ち、皇帝の身の回りから後宮の人事・財政・儀式運営までをも担う存在です。
華やかな装いを許され、時には宰相に匹敵するほどの権勢をふるう者もいました。
ドラマで見かける、乾隆帝の側近・李玉のような宦官はまさにこの“上級宦官”。
彼らは、最下層から長い年月をかけて信頼を勝ち取り、階段を上ってきた人物だったのです。
それでも“一生下級”のままの者も
ただし、すべての宦官が出世できたわけではありません。
多くは一生を無名の下働きとして終え、名前すら記録に残らないまま命を終える者も大勢いました。
静かに、慎ましく。
その人生の重みこそが、宦官という存在のもうひとつの側面なのかもしれません。
宦官の暮らし|紫禁城の中での衣食住
宦官たちは紫禁城のなかでも後宮の近くに配置された専用エリアに住み、複数人で共同生活をしていました。
衣服
基本的には地味な色味の服を着用していましたが、身分が上がると華やかな官服を身につけることも許されました。
役職や等級によって装飾も変化し、ときには高級官僚に近い待遇を受けることもありました。
食事
日常の食事は質素でしたが、高位の宦官には御膳の残りが特別に与えられたり、自前の料理人を抱える者もいたようです。
一部の宦官は賄賂や情報操作で財を築き、ぜいたくな暮らしをしていた記録も残っています。
住まいと日課
居住区は簡素なつくりで、木のベッドにわずかな調度品。
掃除、衣装の準備、文書の運搬、儀式の補助など、役割は多岐にわたり、目立たず正確に行動することが何より重要とされていました。
「宦官=安定と危うさ」について
宦官は、一度入廷すれば衣食住に困らず、“安定職”にも思えます。
けれど実際には、皇帝や后妃に仕える立場ゆえ、少しの疑いで処罰されたり、派閥争いに巻き込まれ命を落とすことも珍しくありませんでした。
信頼されれば大出世、しかし裏切られれば一夜にして地位も命も失う――宦官とは、まさに“栄光と悲劇が紙一重”の存在だったのです。
ドラマは大げさ?いえ、命の重さは本当に軽かった
中国時代劇では、宦官や女官がちょっとした失言や陰謀に巻き込まれて、あっけなく命を落とす描写がよく見られます。
現実の宮廷でも、皇帝の命令は絶対であり、後宮では裁判すらなく処刑が行われることもありました。
ただ、実際に“日常的に人が死んでいた”というよりは、政治的な粛清や皇帝の猜疑心が高まった時に命が失われるケースが多かったと考えられます。
ドラマはその緊張感を強調しているだけで、史実を誇張しすぎているわけではないのです。
宦官の“なりすまし”は本当にあった?
実は、宦官を偽装して後宮に入り込んだ事件が、歴史上実際に起きています。
秦の時代、嫪毐(ろうあい)という男が宦官のフリをして始皇帝の母・太后に近づき、
密通の末、なんと二人の子どもをもうけました。
この男を後宮に送り込んだのが、次回ご紹介する政治家・呂不韋(りょふい)です。
「宦官=安全な存在」という盲信を利用したこの策略は、やがて王朝の信頼を大きく揺るがす結果に…。
まとめ|ドラマがもっと深く楽しめる
宦官とは、ただの召使いではなく――命をかけて皇帝と後宮を支える存在でした。
生まれながらの運命に抗えず、それでも自分の場所を見出しながら生きたその姿には、静かな誇りと切なさが宿っています。
ドラマの中で何気なく登場する宦官たちも、彼らの歴史や生き様を知った今なら、まったく違った視点で見えてくるかもしれません。
次回予告|宦官制度を利用した男、呂不韋とは?
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