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中国ドラマ『瓔珞』は実話?魏瓔珞のモデルと実在した登場人物を史実から解説

中国ドラマ『瓔珞』を見ていると、「この物語は実話なの?」「魏瓔珞は本当にいた人?」と気になりませんか?

結論からいうと、魏瓔珞は実在した人物ではありません。

ただし、モデルとなった女性は実在します。

乾隆帝や富察皇后、富察傅恒など、実在した人物も登場します。

この記事では、魏瓔珞のモデルとなった人物や出来事を、史実と比べながら見ていきます。

中国ドラマ『瓔珞』の登場人物をイメージした清朝宮廷の生成画像

『瓔珞』は実話?

『瓔珞』は、実在した人物や清朝・乾隆帝の時代を舞台に、実在した人物や出来事を取り入れて描かれたドラマです。

実在した人物と史実をもとにしながら、恋愛や人間関係、宮廷で起こる出来事など、ドラマ独自の創作が加えられています。

『瓔珞』は、史実を背景にしたフィクションです。


魏瓔珞は実在した?モデルは誰?

魏瓔珞は架空の人物ですが、モデルとなったのは、乾隆帝の妃・魏氏(のちの魏佳氏、孝儀純皇后)です。

魏氏は乾隆帝の後宮に入り、乾隆10年(1745年)には貴人となり、同年に令嬪へ冊封されました。

その後、令妃、令貴妃、令皇貴妃へと位を上げていきます。

乾隆25年(1760年)には、皇十五子・永琰を出産しました。

この永琰こそ、後の清朝第7代皇帝・嘉慶帝です。

乾隆38年(1773年)、乾隆帝は秘密立儲によって永琰を後継者に選びました。

清朝では雍正帝以降、皇位継承をめぐる争いを避けるため、後継者の名前を書いた密詔を乾清宮の「正大光明」の扁額の後ろに保管する方法がとられていました。

永琰が後継者に選ばれたのは、魏氏が亡くなる2年前のことです。

ただし、秘密裏に決められたため、魏氏が息子が次の皇帝に選ばれたことを知っていたのかは分かっていません。

魏氏は乾隆40年(1775年)に亡くなり、生前に皇后になることはありませんでした。

それから20年後の乾隆60年(1795年)、永琰が皇太子であることが公表されると、魏氏には「孝儀皇后」の称号が贈られます。

翌1796年、永琰は乾隆帝から皇位を譲られ、嘉慶帝として即位しました。

魏瓔珞のモデルとなった女性が、次の皇帝となる人物の母だったことは史実です。

魏瓔珞は史実でも宮女だった?

ドラマの魏瓔珞は、繍坊の宮女として紫禁城に入り、その後、富察皇后に仕えます。

モデルとなった魏氏については、乾隆10年(1745年)には貴人であったことが史料に残っています。

ただし、それ以前に宮女として仕えていたのか、どのような経緯で乾隆帝の後宮に入ったのかは、はっきりしていません。


富察皇后は実在した?最期はドラマと違う

『瓔珞』で魏瓔珞が仕える富察皇后も、実在した人物です。

史実では孝賢純皇后・富察氏といい、乾隆帝の皇后でした。

ドラマでは、第七皇子・永琮を失った悲しみに加え、乾隆帝との関係にも絶望した富察皇后が、最後は宮中の楼閣から身を投げます。

史実の富察皇后の最期は異なります。

乾隆13年(1748年)、富察皇后は乾隆帝が山東方面を巡る「東巡」に同行しました。

東巡から戻る途中、徳州の船上で亡くなっています。

前年には、幼い第七皇子・永琮を亡くしていました。

富察皇后の詳しい死因は、はっきりしていません。


富察傅恒も実在した?魏瓔珞との恋は史実?

『瓔珞』で魏瓔珞と想い合う富察傅恒も、実在した人物です。

史実の傅恒は、富察皇后の弟。

乾隆帝に仕え、軍機大臣や大学士などの要職を務めました。

金川への遠征では軍を率いるなど、清朝の政治と軍事の両面で活躍した人物です。

ドラマでは、魏瓔珞と傅恒の恋が物語の大きな軸になっています。

魏瓔珞のモデルとなった魏氏と傅恒は、同じ時代に実在しましたが、二人に恋愛関係があったことを示す史料は確認されていません。


乾隆帝も実在した?どんな皇帝だった?

『瓔珞』に登場する乾隆帝も、もちろん実在した人物です。

清朝第6代皇帝で、1735年に即位。

翌1736年から「乾隆」の元号が使われました。

約60年にわたる治世は、祖父・康熙帝の時代から続く清朝の繁栄期にあたります。

乾隆帝は書画や古美術を好み、歴代の書画や書籍を数多く収集しました。

現在、北京や台北の故宮博物院に伝わる作品の中にも、乾隆帝が収集したものや、鑑賞した印を残したものがあります。

1795年には皇十五子・永琰に皇位を譲ることを決め、翌年に退位しました。

これは、尊敬していた祖父・康熙帝の在位61年を超えて皇帝の座にいないという、乾隆帝自身の考えによるものでした。

ドラマでは気難しく威厳のある皇帝として描かれていますが、史実をたどると、政治だけでなく文化や芸術にも強い関心を持った皇帝だったことがわかります。


高貴妃と嫻妃も実在した?

『瓔珞』で富察皇后や魏瓔珞と対立する高貴妃と嫻妃にも、モデルとなった実在の女性がいます。

高貴妃のモデルは慧賢皇貴妃・高氏。

高氏は乾隆帝の即位後に貴妃となり、乾隆10年(1745年)に皇貴妃となりました。

同年に亡くなり、「慧賢皇貴妃」の諡号を贈られています。

ドラマでは華やかで気性が激しく、富察皇后と激しく対立する人物として描かれますが、こうした人物像や宮中での争いをそのまま史実と見ることはできません。

嫻妃のモデルは、後に乾隆帝の2人目の皇后となった那拉氏

那拉氏は富察皇后の死後、皇貴妃を経て、乾隆15年(1750年)に皇后となりました。

ところが乾隆30年(1765年)、乾隆帝の南巡に同行した際、自らの髪を切るという事件が起こります。

清朝では髪を切ることは大きな意味を持つ行為でした。

乾隆帝はこれを問題視し、那拉氏は帰京後、皇后としての待遇を大きく失います。

なぜ那拉氏が髪を切ったのか、その理由は現在もはっきりしていません。

『瓔珞』の嫻妃も実在の女性をモデルにしていますが、魏瓔珞との対立や宮廷内の出来事までが史実というわけではありません。


『瓔珞』の登場人物|実在・モデル・創作まとめ

ドラマの人物史実上の人物・モデル生没年満年齢での没年齢
魏瓔珞孝儀純皇后・魏氏1727–177547〜48歳※
富察皇后孝賢純皇后・富察氏1712–174836歳
富察傅恒傅恒1721–177048〜49歳※
乾隆帝愛新覚羅・弘暦1711–179987歳
高貴妃慧賢皇貴妃・高氏1711–174533〜34歳※
嫻妃継皇后・那拉氏1718–176648歳

※正確な生年月日を確認できない人物は、生年と没年から満年齢を範囲で表記しています。
清代の史料に記された年齢は数え年のため、現代の満年齢とは異なる場合があります。


『瓔珞』はどこまで実話?

『瓔珞』は、乾隆帝の時代と実在した人物を土台にしながら、恋愛や人間関係、宮廷での出来事に創作を加えたドラマです。

魏瓔珞自身は架空の人物ですが、そのモデルとなった魏氏は実在し、後に皇帝となる嘉慶帝の母でした。

史実を知ってから見返すと、ドラマで描かれた人物や出来事の「どこまでが史実なのか」を比べる楽しみも増えます。

『瓔珞』のあらすじや登場人物、見どころについては、こちらの記事でまとめています。

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